追記-終末のフール

終末のフール

終末のフール

8年後に地球に小惑星が落ちて人類は滅亡します。
というアナウンスがあった後の、人々の生きるようすを描いた短編集(?)。
買ったものの、1話目にのめり込めず(もともと怖い話は嫌い)に積んで置いたが、今回の地震原発騒ぎがあって読んでみた。
積んでおいた事を後悔するくらい面白かった。
小惑星は何にでも置き換えられるが、あえてとっぴでもない物を選んだのではと思う。
おそらく終わりまでの猶予期間を長く取りたかったのだろう。
時期的に嵌りすぎてて、不謹慎と取る人もいるかもしれないが、落ち着く人もいると思う。
(発売されたのは随分前)
伊坂さんは、たまに、予言めいた作品を書く。
(魔王を書いた後に小泉政権が誕生したり)


作中のムードは、パニック期を経た後に
1:『いかにして終わりを迎えるか』⇒
2:『終わりは来ないかもしれないから(来るにしても)普段どおりやろう』⇒
3:『終わりが来てもギリギリまで生きよう(あがこう)』
のように移っていく(ように感じた)が、大抵の人がたどり着く結論はこの3つではないか。
自分の場合は、2を目指したいかな。
(目指すだけで実現できないが)
最近、普段通り、いつも通りって強いよなと感じる。
好きな事に没頭しているのが一番強い。
ただ、没頭から覚める瞬間というのは誰にでもあって、そこが危ないとも思う。
没頭は逃避でもある。
実は問題と向き合っていなかったりするので、没頭から覚めた状態で突きつけられると手ひどいダメージを受けたりする。
まともに向き合った上で2ってどういう心境なのだろう。


大抵の事は、誰かから教わったり、ネットで調べたりできるが、『死』についてはそれができない。
『死』を意識したり、今回のような出来事があった際に、どういうイメージが浮かぶだろう?


自分は『走り高跳び』のような物をイメージした事がある。(まぁバンジージャンプでもいいけど)
あまりにバーの高さが高くて助走に入れないイメージ。
ただ、これはおかしいなと思い始めた。
自分が助走に入らなくても、踏み切らなくとも、死ぬときは死ぬし、それ以前に、それが死かどうかは判断できないよなぁと思う。
だから、『死のようなもの』や『怖いものに近づく』時のイメージは『クリア不可能な走り高跳び』だが、実際はもっと別のものなのだろう。


よく言われることかもしれないが、リブートできない状態が死。鳴らない目覚まし時計。
眠りについて、次の朝起きれるかどうかは判らない。
目が覚めれば生きていたし、目が覚めなければ結果として『死』だけど自分には確かめる術がない。
鈍器で頭を痛打されて昏倒しても同じ事。
「痛かったなぁ」といって立ち上がってくれば生きていたという事。
『死ぬかも』と感じる事はできても、それが本物かどうかはわからない。
こういう風に考えていくと、その延長線上に2があるかなぁと思うがどうだろう。
(概念的に不死身の(限りなく自分は死なないと思い込んでいる)人間はいるのだろうとも思った)


また、こう考えると生きるか死ぬかに人間の意志は介在していないのではないかとも思えてくる。
少なくとも気力でどうにかなるものではなさそう。
実は最近、脳みそは王様ではなく奴隷かもと思い始めているのだが、話がどんどんそれていくので終了。