追記1

ちょうど良い記事があったので追記。
ツイッター担当者は、多かれ少なかれネット以前の価値観とツイッター的価値観の板挟みにあっているという話 (1/3)
上の記事に出てくる上司も、『老害』と言われかねないケースだと思う。
また、上司は担当者さんを『いまどきの若い人は』とか、当てはまれば『ゆとり世代は』とかこぼしているかもしれない。


この記事の担当者さんの素晴らしいところは、ちゃんと戦って仕事を守ったところ。
仕事は守られたのだから、『老害』は発生していない。


このとき、上司のこの発言だけを取って、それを『老害』と片付ける人がいれば、それはやりすぎではないかと思う。
それは、役割であり、考え方の違いであり、仕事をすすめる上で必要な(必ず発生する)プロセス。
老害』や『ゆとり』で終わらせちゃうのは思考停止につながる。
自分のこれらのワードに対する嫌悪感もそのあたり『コミュニケーション放棄』から来ているようだ。


老害』や『ゆとり』という単語が登場する際は、どちらかがコミュニケーションを拒絶しているのだろうが、十分なコミュニケーションがなされない責任は常に双方にある。
老害』と発言する若い世代は『ゆとり』(その他時代毎に存在する呼称)に自らを分類する事になるし、『ゆとり』と発言した時点でその人は『老害』の仲間入り。
そんな風に思う。